中世ヨーロッパにおける錬金術
いつの時代も金は常に不足し、希少性の高い金属のため、中性ヨーロッパでは、他の金属から金を生み出す錬金術の研究が盛んに行われました。
結果的に金を人工的に作り出す事は出来ませんでしたが、錬金術から生まれた様々な技術は、現在の科学の始まりとなりました。
硫酸・硝酸・塩酸などの化学薬品や実験道具の数々は、錬金術の試行の過程で発見、発明されたものです。
しかし、科学が進歩すればするほど、錬金術が目指したものを精製することは不可能という結論に達します。
そして、科学が広まるほど、錬金術はかつての勢いを失い、やがて歴史から消えていきます。自らが生み出した科学によって錬金術が消えたという事実は皮肉なことだと言えるかもしれません。
黄金を求めて新大陸へ
大航海時代の16世紀、インカ帝国に侵攻したスペインのコンキスタドール(征服者)であるフランシスコ・ピサロは、インカ王アタワルパを幽閉しました。
皇帝アタワルパは、釈放のために間口4メートル、奥行き7メートル程もある部屋を金銀財宝で一杯にし、それらの財宝を供出する代わりに自分の身を自由するようにと申し出を行いました。
実際に、アタワルパはすぐに使者を各地に送り、国内の黄金製品をかき集め、それらの黄金で部屋を一杯にしました。その額は約2億7000万ドル(約250億円)にも達していたと言われます。
この膨大な量の黄金を目にし、スペイン人の金に対する欲望は加速しました。
ピサロ率いるスペイン軍は、皇帝アタワルパとの約束を反故にし、自由を与えるのではなく絞首刑に処したのです。
その後、ピサロは、首都クスコにはさらなる黄金が待っているものと想像し、クスコへと軍を進めます。
ピサロが想像していた通り、実際にクスコの街は黄金で溢れていました。
建物の壁には黄金の板が張りめぐらされ、食器・装飾品・像なども金で作られていたのです。
中でも政治・宗教的中心となっていた「太陽の神殿」は石壁の外側に黄金が貼られ、内部には金製品がはめ込まれ、主神殿、各聖堂はすべて黄金の板や銀の板で覆い尽くされていたのです。
金に魅せられたスペイン軍はそれらの黄金を次々と略奪し、破壊を繰り返しました。
この時に奪った金は、すぐに溶かされ、延べ棒や金貨に作り替えられました。
大量の純金を保有していたインカ帝国は滅亡して、数十億円分の純金がヨーロッパに流入することとなったのです。
しかし、金を独り占めしようと考える各人の思惑による、スペイン人同士の内紛により、インカ帝国を滅亡させたピサロもまた、不満分子の襲撃をうけ暗殺されることとなりました。
金への飽くなき欲望による争いは、その後もスペイン軍内において頻発することとなりました。